ちょっと前のわたしたち

【No.381】3月10日 SARA

No.381

3月10日 SARA(グラナダ)

「日本で踊った!」

 こんにちは。 2月は日本に里帰り。 そして、フラメンコも踊った! なんだかとても嬉しい。

 15年前、日本からスペインに移住してから、踊る場所はスペインだった。 その前も何かと日本の先生に興行に連れて行ってもらったため、日本でも人前で踊っていなかったわけではないが、なんせ、踊り始めたばかりの頃、踊るのが楽しかっただけで、人前で踊る怖さ、フラメンコの深さなんて全く理解していなかった時代のこと。タブラオ Venta Lucianoにて SARA

 スペインに住んでからも、人前で踊る機会には恵まれた。 でも、やはり、人前で踊るのがこんなに大変なのかと、自分を伝えたいと本気で思い始めたのは、たぶんマドリード時代、 7~8年前。フラメンコの旅は長い。 人生と一緒。 いろいろな段階がある。 それぞれの時代での試行錯誤。それが人生と似ている。成功とかゴールは無い。目標にやっとたどりつくと、次の目標がすくっと待っている。

 十年前に父が他界。 初めて永遠に近くにいてくれると思った人物が自分の目の前で冷たくなった。 一人になった母にやっきになって踊りをみてもらった。 そんな母も2年前に他界。 彼等が居なくなったのでは、もう誰にも私の踊りを見てもらう人がいない、ってなんとなく心で思っていたのかもしれない。

 その頃、 結婚には“失敗"し、“離婚”という形を取ったが、私の心は次第に自由になっていく感じもあった。 でも、やっぱり自分のためだけに。 つまり、20年近くフラメンコをやってきたから続けるんだとか、何かモチベーションに不足していた。 でもある日、誰かが言った「自分のためだけじゃなくて、誰かのために踊ってもいいじゃないですか?」って。 その時“日本”を考えた。 “自分の土地”、“自分の友達、仲間”。 そして、去年の夏過ぎに重い腰を持ち上げてもう一度踊ってみようと考えた。

 4年のブランクは大きい。 足が動かない。 4年間靴は履いていたし、小さな町のお祭りで踊ったりはしていたが、ソロで1曲は4年間くらいやってない。 先ずは日本の仲間が、先生が励ましてくれた「一緒に踊ろうよ」って。 そして、それでも、足が動かなくてベソベソしている私をスペインの先生も励ましてくれた。 恵まれてる。 ベソベソしているひとは普通ほおっておかれる。 「やらなくちゃ」と思った。 レッスンの量を増やすことで、埋まらないブランクを埋めた。

タブラオ Venta Lucianoにて SARA 人生の御褒美がやってきた。
日本で踊る前に、どうしても本番の感覚を取り戻したかった私は、自分でグラナダの町を歩き、久しぶりにライブをやらせてもらえるところを探していた。 そのとき、今の舞踊学校のマリキージャ先生のタブラオの門が再び開いた。

 13年くらい前だったか、何回か呼ばれたのだが、ベテランの踊り手と混ざるのがきつくてなんとなく足が遠のいてしまったタブラオ。 何年の付き合いがあっても自分からは「躍らせてください」と言ったことはない。 でも、再びチャンスをくれた。 年末から、毎週の火曜日のレギュラーをくれた。 楽屋には、私のコーナーも作ってくれた。

 私は泣いた。 プロの世界に外国人が入るのは難しいのだ。意地悪もたくさんされる。 こんなに温かい楽屋は初めて。 日本に行く前は、出演者全員が自分の髪飾りやら、イヤリングやら花を「貴方の衣装に合うと思って」と言ってプレゼントしてくれた。 また、泣いた。 化粧のしかたもこうしたほうがいいと皆で教えてくれた。

 何回かグラナダのタブラオで踊るうちに、舞台の感覚も体によみがえってきた。 無心になれた。 一番好きなひととき、ギターと歌しか聞こえない。 私からフラメンコを外すのは無理。(笑) さて、“準備万端”かどうかはともかく、日本へ、いざ出陣!

 4年間の練習不足をカバーするために、今回日本にもっていく2曲はごくシンプルなものにした。 曲は伝統にそったもので、長くない(目標7分でまとめる)。 自分の実力以上の難しい技は入れないだった。(笑) やってみたら、最初は不安になった。 テクニカルなフラメンコが流行っている日本でこんなにシンプル(=何もしない)フラメンコは大丈夫なんだろうか? でも、実は何もしないフラメンコが実は私らしいフラメンコでもあるのも事実と信じて、日本に到着してからも練習に励んだ。 だんだん足がちょっとましになってきたころ、今回の初舞台、昔の先生と仲間達との新宿“エル・フラメンコ"でのライブ。

先生、相田照恵さんとSARA とにかく、信じられないくらい楽しかった。 スタジオの中級クラスの人~同輩~先生~ベテランのギタリスト~若手の歌い手さん~。 皆のコミュニケーションがよかった。

 “諸行無常”を感じる。このひとときは、絶対無二なり。 一瞬が輝き、そしてきえていくその一瞬が。 だから切ない。  そう、フラメンコは踊ったら消えてしまう。 だから美しくて切ない。(と、私は思う)

 私は、全員に向かって踊った。 非常にエネルギッシュな一時だった。 天国に向かって踊った。 客席にいる親戚も友人にも、知らない人にも、目一杯踊った。 バックの皆にも踊った。 仲間にも踊った、先生にも踊った。 あの7分は、世界中で私だけが主役になれた7分だった! 主役、でもフラメンコという音楽で共有する7分間。 これだからフラメンコはやめられない。 真っ白になり、フラメンコの精に取り付かれる。 まだまだ、踊りたい。 そして初めて踊った“エル・フラメンコ”は私とってとても踊りやすい会場だった。 またいつかあそこで踊りたい。

タブラオ Venta Lucianoにて SARA 場所は変わり。 今回の日本での第2ラウンドは、日本のタブラオの老舗、高円寺のエスペランサ。 実は主役が苦手な私が主役。 “石川亜哉子一時帰国記念ライブ”と大それたタイトルが... 私の先生がお金を払って私を見に来る!?? 私にとって謎の瞬間。 くらくらしている私を一緒にライブを務めてくれたえりちゃんが毎日練習で励ましてくれる。 恵まれてる。 だんだん元気が出てきた。 でも、やはり心配だったのは、そのライブがぶっつけ本番に近いものになること。 歌い手のスペイン人は当日しか来ないし...

 フラメンコは、勿論、アドリブでもできるものであり、プロならやらなくちゃいけない。 でも、それは時と場合である。 毎日こなしている舞台、良く知っている範奏者たち。 そういう者達の間ではなりたったりする。 あとプロ中のプロとか。

 でも、半素人が集まってもアドリブは、かっこ悪いことになるのだ。 だから、もう、とにかく緊張していた。

 さて、当日も、いろいろあった。(笑) 歌い手のスペイン人のおかーさんは、スペインでも超有名な踊り手さん... スペインでもなかなか見れないくらいの... 当日の5時半、あわせの会場にそのおかーさんも来ている... しーん...

 この人の前で練習をしろと??? 私は踊るくつを左右逆にはいてしまったりして、真っ青状態... まあ、なるようになれ。 やけになってやるしかなった。 自分が楽しまなくてどうする!友人達もこのライブに4人も巻き込んでしまったのだ。 私が泣いたてたら、どうしようもない!

 というわけで、何がでるか分からない舞台だったけど、私達は非常に楽しみました。2月13日エル・フラメンコにてSARA そして、その楽しめた理由は、客席が非常に、異常に(笑)温かかったこと。 エスペランサのマスターの顔。友人達の顔、顔、顔、顔、顔!先生の顔!仲間の顔! これはありがたい。 また力が湧いてくる。 歌い手のおかーさんもたくさん声援を飛ばしているのが聞こえる、聞こえる!(笑)

 そう。 私は、自分のためたけど、自分のためだけに踊っているのではないと感じる。 皆のために、踊っている(って言われても困るだろーけど)。(笑) フラメンコのために、踊っている。 私のスペインで見てきたフラメンコは、楽しくて、哀しくて、果てしなく広くて、
果てしなく狭くて、白くて、青くて、黒くて...切なくて...バカみたいに明るくて...
赤くて...酸っぱくて、甘くて...笑が止まらなくて...涙が止まらなくて...
体の五感を精一杯使って、全身で感じてきた音楽。

 もうちょっと踊ってみよう! “Ole y Ole y Oleeeee!”

 

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