JOANのカタコト

 

 このコーナーでは、スペインのカタルーニャ語圏に住み、片言に毛の生えた程度のカタルーニャ語を使って生活する筆者JOANが、自分で体験したことや友人・マスコミ等から得た情報を総合して言語・民族にまつわるテーマを中心に書いていきます。カタコトとは、拙い文章で綴った「カタルーニャ語圏から見たスペインのこと」の意味です。

 

13.脱ぐ男優

バルセロナでカタルーニャ語の演劇を見に行って、驚いたことのひとつに男優の全裸があります。いくつかの公演で何度か見たのですが、それなりに有名な俳優達がストーリーの都合で一糸まとわぬ姿になるのです。筆者は男なので、別にそれを見たからといって劣情をそそられることはないのですが、なぜハダカになりたがるのか、あるいはなぜそういう台本が多いのかちょっと不思議な気がします。

映画では普通のことでも、演劇で実演のハダカを見せられるのは、日本で育ったせいでしょうか、すこし落ち着かない気分になります。女の人のハダカも劇中で見たことがありますが、上半身だけ見せるというというビーチとほとんど同程度の露出だったので、それほどのインパクトは感じませんでした。

さてここでは、あるお芝居で全裸になったジュエル・ジュアン(Joel Joan)という役者について書いていきます。体に着た服を脱ぐことにではなく、カタルーニャ人の心のハダカにこだわる彼の生き方に興味があったからです。

筆者がこの人ジュエル・ジュアンを知ったのは、1994年にカタルーニャ放送TV3で放送されたポブラ・ノウ(Poble Nou)という連続テレビドラマの中ででした。語学の勉強の目的という大義名分で、毎日この番組を見ていたのですが、彼は主役ファミリーの長男役で商売女に恋をし、マフィアに暴行され重態になるも腎臓移植によって一命をとりとめ、その後しばらく歩行できず車椅子で不自由な生活を強いられるが、奇跡的に回復する…などという波乱万丈な一年間を演じていました。

彼はその後には他のドラマや映画で役者としても活躍していましたが、同時に自ら主催する劇団クランパック(Krampack)では役者と同時に脚本家・演出家としての活動も増えてきました。1997年の同劇団の「私は醜い女」(Soc Lletja)という劇の中で踊りながらハダカになっていくシーンは、前に述べたように非常に印象的でした。そして1999年からTV3で始まった自ら主演・脚本を担当するプラッツ・ブルッツ(Plats Bruts)というコメディーは、色んな意味で実験的だったのですが記録的視聴率とともに大成功し、彼自身もカタルーニャを代表する役者の地位を確たるものにしました。

2001年になって、今をときめく人気者ジュエル・ジュアンとしては意外なことに思われたのですが、活字を使っての活動を始めました。カタルーニャ語紙AVUIに論説を発表したのです。「ハダカになって」と題された小論で彼は、カタルーニャ人達に向けて自らのアイデンティティーに正直に生きることの大切さを訴えていました。

この論説の中で、彼は今日存在するカタルーニャ民族主義政党やその活動家・政治家達とのはっきりとした距離を置き、自分をラディカルな反民族主義運動家であると位置付けています。彼にとって大事なことは自由であり平和であり、どこの国の国民であるかということではないという主張なのです。現行のカタルーニャ民族主義者達がしていることは、自分達をスペインの中でどう位置付けるかということでしかなく、スペインは複数言語・文化の国家だとかいうお題目で、結果としてカタルーニャ人達に一方通行のバイリンガル社会を強いることになっているとしています。

その一方で、スペイン人達に対しても厳しい目を向ける発言をしています。私達カタルーニャ人は昔から侵略戦争を繰り返してきた某民族とは違い、地中海の交易・商業で他民族との融和の中に生きてきたので、本来はナショナリスティックではないはずだ。スペイン人達こそが国境線で囲った他民族に対して、無理にスペイン性を押し付けている真の民族主義者達であって、彼等から自分達普通のカタルーニャ人が不当に民族主義者のレッテルを貼られているとしています。

そこで彼は、「ハダカになる重要性」を論じます。スペイン人によって着せられた服でもなく、カタルーニャ民族主義活動家によるそれでもなく、自分のアイデンティティーは自分の中に持っているもなんだから、服を脱いでハダカになればいいんだ。自分達は生まれた時からカタルーニャ人ではないか、カタルーニャ語を話しカタルーニャ文化を受け継いでいくのに、どんな表面的飾りつけもいらないのだと主張します。つまり、カタルーニャにごく普通に見られる二重言語・二重アイデンティティーの状態は制度や政治の問題ではなく、それを受け入れてしまう自分達の心に問題があるとしているのです。

この論説に対して反響は小さくなく、新聞にも多数の投書が寄せられ「よく言ってくれた」「私もハダカになる」「他のカタルーニャの著名人たちは、どうして彼のようにハダカになれないんだ?」といった意見が見られました。中には感激して「彼に州政府の次期プレジデントになってほしい」といった、極端なものまでありました。

さて、彼の考えの是非を論じるのは筆者の手には余りますが、少なくとも彼の「心のハダカ」は、「体のハダカ」と同等あるいはそれ以上のショック与えてくれたのも事実です。彼はほとんどフランコ後に育った世代だし、それなりのカタルーニャ語教育を受けてきたはずです。そして演劇学校に通った後にテレビドラマの重要な役に抜擢され人気者になり、カタルーニャのみならずスペインレベルでの知名度もどんどん上がり、ほとんど挫折もなくスター街道を登っているように感じていました。カタルーニャ出身のスター達はメジャーになるために、マドリードでそしてスペイン全土で有名になることを好む好まざるにかかわらず受け入れてきました。彼もその一人だと考えていたのに、そのスリムな体の中に、カタルーニャ人としての「心のハダカ」にこだわる太く頑強な芯があったのです。一般的に若い世代はカタルーニャ語への渇望が少ないように感じていたし、スペイン人として活躍する数多いカタルーニャ人スター達を見るにつけ、彼の「ハダカ論」にはとても驚かされました。

今後も彼がどんなハダカを見せてくれるか、楽しみです。

 

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