はじめに
牛追い祭りとしても知られている、ナバーラ州パンプローナ市のサン・フェルミン(San Fermín)の祭りは7月6日正午ロケット花火の打ち上げと共に開催が宣言され、14日の"Pobre de Mi"で終わります。 この古くから続けられているサン・フェルミン祭りは文豪ヘミングウェイの小説「日はまた昇る」で世界に紹介され、現在では期間中に世界から250万人の人がパンプローナ市を訪れるお祭りとなっています。
お祭りは7月6日正午スタート。 パンプローナ市庁舎前広場は、白い装束と赤いスカーフを巻いた1万人以上の人たちで埋め尽くされ、広場周辺を合わせると3万人もの人がお祭り開始の合図となるロケット花火の打ち上げを待ちます。 この日午後には巨大人形と音楽隊のパレード、民族舞踊の披露が行われ、街はお祭りの雰囲気で溢れかえります。
そして、翌日の7月7日8時ちょうどに、このお祭りの主役ともいえる、市の古い町並みを走り抜ける牛追い(Encierro)が行われます。 牛追いはお祭りの期間中毎日朝8時に行われます。
このように、牛追い=サン・フェルミンとしてよく知られていますが、聖人であるフェルミンを称えるためのお祭りがサン・フェルミン祭、日本語にすると「聖フェルミン祭」となります。
ここでは、サン・フェルミンと牛追いの歴史について触れていきたいと思います。
聖フェルミン(San Fermín)
伝えられている話によると、3世紀の時にサトゥルニーノ司教が、彼の弟子の一人であるオネスト(Honesto)を元老員議員でローマ人のフィルムスとその家族に洗礼を与えるためパンプローナに送りました。 その洗礼を施された人の中の一人が、元老員議員の息子で、後に聖人となったフェルミンで当時17歳でした。 彼はオネストに教えを受け、説教を始めました。
フェルミンは7年後に司教に任じられ、フランス中を説教して歩きました。 その間、盲目の人の視力を回復させ、ハンセン病患者を治し、体の動かない人を治すなどフランス北部のアミアン(ユネスコ世界遺産に指定されているノートルダム大聖堂がある街です)に着くまでに千人を超える人の病を治すという奇跡を起こしました。
当時、その地方を管轄していたセバスティアン総督は、ローマの神である ユピテル(Jupiter、ローマの最高神)、メルクリウス(Mercurius、ユピテルの息子で商業神)への信仰を回復するため、人望の高かったフェルミンを逮捕、死刑を宣告、フェルミンを斬首の刑に処しました。 そのため、パンプローナの人たちは フェルミンの受難を思い出すため、サン・フェルミンのお祭りの間、首の回りに赤いハンカチを着けることになりました。 フェルミンの遺体は615年奇跡的に見つかり、アミアンの大聖堂に安置されました。
ナバラと聖フェルミンの関わりは12世紀からになります。 ペドロ・デ・アルタホナ司教はフェルミンを聖人と同格に扱い、これが現在のプロセシオンの始まりだと思われますが、パンプローナにフェルミンの遺骨(頭部の一部)を持ってきました。 その後、1572年には胸の遺骨、1941年には右の大腿骨の部分がパンプローナに移され、サン・ロレンソ大聖堂に納められました。
祭り
最初、聖フェルミン祭りが始められた時、お祭りはフェルミンがアミアンに着いた時を記念して10月に行われていました。 当時の聖フェルミン祭は現在のものとはかなり違っていて、今と比べると小さな規模のお祭りでした。 サン・ロレンソ教会での前夜祭、プロセシオン、8日目祭、そして「貧者の食事」と名付けられた、ブドウの枝で焼いた牛肉、パン、ワインが広場で提供されるというだけのものでした。
1591年、10月は雨が多いという気象条件のためにパンプローナの人たちは聖フェルミン祭を7月7日に変更しました。
宗教的儀式として始まった聖フェルミン祭ですが、17・18世紀ごろから音楽やダンスを楽しんだり、巨大人形が出てきたり、トーナメント試合が行われ、見せ物が催されるようになり、各地から人が集まり、より遊興的な要素のある市民が楽しむお祭りへと変化していきました。
前夜祭(Las Vísperas)
前夜祭の最初のミサは、6日20時に聖フェルミンの遺体が安置されているサン・ロレンソ教会で15世紀から歌い継がれている聖フェルミンを称える歌を歌うことから始まります。 これが、このお祭りでの最初の宗教的儀式となります。 この儀式、男性は燕尾服、手袋、シルクハットという正装で、女性はこの地方伝統衣装に身を包むということになっています。
プロセシオン(La Procesión)
7月7日、9時50分。 市の代表者達は前夜祭と同じようにセレモニーのための正装をし、市役所から大聖堂に向かいます。 それに少しおくれて巨人人形、「txistu」(バスクのフルート)、バグパイプ、フルート、太鼓などの演奏者が続きます。 教会関係者と合流後はサン・ロレンソ教会に向かって進みます。
10時30分には、聖フェルミンのお祭りを祝っているパンプローナ市民が多くいる旧市街の通りを進みます。 サン・アントン通りの47番地で、サン・フェルミンを称える最初のホタ(民族音楽)が歌われます。 忠告の広場(la Plaza del Consejo)では聖歌隊により「Al Glorioso San Fermín」が歌われます。 さらに進むと、かって聖フェルミンが洗礼を施した古くからの井戸があるサン・セルニン「pocico」で行列は止まります。 ここでは赤いバラの花束を持った二人の子供が待っており、聖フェルミンの像にこの花束を捧げます。 この儀式の間、音楽奏者は聖フェルミンを称えて「Agur Jaunak」を演奏します。 マジョール通りに入ると「Amigos del Arte」とナパルディ美食協会がホタを演じ、サン・ロレンソ協会に向かいます。
このセレモニーの最後に、「モメンティコ」として知られている、一番感動的な儀式が行われます。 教会の鐘が鳴り響く中、「txistu」やガイータの演奏で巨人人形が大聖堂の前庭で踊ります。 「María」と呼ばれる教会の鐘は12トンの重さがあり、1584年に製造された、スペインでは2番目に大きなものです。 最後に、楽隊が「Asombro de Damasco」を演奏する中、行列参加者は帰って行き「danzaris」(バスク地方独特の踊りを演じる人)がコンシストリアル広場にて踊りを披露します。
ラ・オクタバ(La Octava)
7月14日、10時45分。 サンロレンソ教会までのラ・オクタバのプロセシオンに市の関係者は正装して参加します。 巨人人形と楽隊もこれに参加します。
闘牛
パンプローナのサン・フェルミン祭りに行った人は、一日中何らかの形で闘牛と関係したイベントを楽しむことができます。 闘牛関連のイベントとして、牛追い、子牛の解放(suelta de vaquillas)、牛分け(apartado)、ムリージャス(mulillas)、エンシエリージョ(encierrillo)というものがあります。
牛追い(El Encierro)
牛追いはサン・フェルミンのお祭りの中でももっとも人気が高いもので、この牛追いが目的で多くの外国人が7月6日パンプローナを訪れます。 牛追いは、両側が木のへいで保護された道沿いに、闘牛場に向かって牛の前を走っていくことです。 牛追いの目的はその日の午後の闘牛に使われる雄牛をサント・ドミンゴの牛囲い場から闘牛場まで移すことです。 合わせて6頭の闘牛と2つのおとなしい牛グループ、あるいは去勢された牛が一緒に走り、おとなしい牛たちは闘牛士と戦うことになる雄牛がグループから離れたりしないよう、確実に闘牛場に向かうように導く役目をします。 このパンプローナの旧市街を通って行われる牛追いの全長は825メートルあります。
牛追いの歴史
牛追いの歴史は14世紀から15世紀までさかのぼる事になります。 ナバーラの首都の郊外に集められた雄牛を闘牛場まで運ぶということは、闘牛を市の中心部で行うためにはどうしても必要なことで、そのために牛追いが始まりました。
17世紀後半の頃、闘牛の雄牛は馬にのった牧童頭の先導で周囲を去勢された雄牛と牧童に囲まれて闘牛場まで運ばれました。 関係者間の言い伝えでは、時にはパンプローナの有志が市の許可を得、馬に乗って参加するということもあったそうです。 この最初の有志グループは肉屋の人たちだったそうですが、歴史的に見て、彼らがパンプローナの牛追いで初めて走った人たちということが確認されています。 その頃の牛追いが行われた道順は現在と異なっていました。 サント・ドミンゴの牛囲い場からフルータ広場(現在のコンシストリアル広場)を通り、チャピテラ通りから闘牛の行われていたカスティージョ広場までというものでした。
1852年にカスティージョ広場に代わって、新しい闘牛場が建設されたことから、牛追いの道順も変更されました。 そして、1856年から現在の牛追い経路となっており、その後はまったく変更されていません。
その頃、若者達は市の許可を得ずに、規則違反を犯して牛追いが行われている道に入り、雄牛の前を走っていました。 信じにくいですが、当時は若者が牛追いに参加することは禁じられており、市当局は若者が参加しないようにしていしました。 実際、17世紀から19世紀にかけて、市当局は牛追いの道に入らないようにという法令を公示、若者参加を防ごうとしていました。 その当時のことが今でも次のように歌われています。 "Ha dicho el alcalde que no salga nadie, que no anden con bromas que es muy mal ganado"
しかし、当時すでに雄牛の前を走ることは、かなり人気があり、市当局の法令をなんとか廃止しようという動きが牛追い同好者の間にありました。 1867年7月、牛追いの際の注意と禁止についての内容で、主催者は十分な監視をするようにという新しい法令が公示され、禁止事項ではなくなり、牛追い同好者に最初の道が開かれました。 この法令は、街の中の道を走り、雄牛を闘牛場まで先導するという行為を行う人たちに対して敬意を払ったものだと言われています。 現在に近い、牛追いの解放までにはさらに9年の月日が必要とされました。
1876年6月28日、祭礼委員会において、祭りの行事として牛追いが全面的に認められ、参加が自由となりました。 ただ、一部議員には反対の声がまだあり、女性、老人、子供の牛追いへの参加は認められませんでした。
結果として、サン・フェルミンのお祭りの中でもより人気のあるイベントして、現在の牛追いがあります。
1924年、牛追いで最初の死亡者が出ており、現在まで14人の方が亡くなられていることも忘れてはいけません。 その後、1991年には、死亡には至らなかったものの、女性が初めて牛の角に刺されています。
牛追い、走るために
牛追いはお祭りの行われている7月7日から14日の間、毎朝行われます。 牛が放たれる数分前、雄牛の管理者達は聖フェルミンの加護があることを祈ります。 また、手には誘導に使うために巻かれた新聞を持っています。 そして、走る人たちは聖フェルミンの加護を祈って、次の言葉を三度唱えます。 "A San Fermín pedimos, por ser nuestro patrón, nos guíe en el encierro, dándonos su bendición" この儀式は、1962年から慣習的に行われているものですが、走る人たちのが行う伝統的な儀式となっています。
8時ちょうど。 最初のロケット花火が打ち上げられ、サント・ドミンゴの牛が囲われていた門が開けられたことを知らせます。 2発目のロケット花火が打ち上げられ、全ての牛が放たれ、道を走り出したことを知らせます。 そして、すべての牛が闘牛場内に入った時に3発目のロケット花火が打ち上げられます。 牛がすべて闘牛に出る前の囲いに入った時に、4発目のロケット花火が打ち上げられ、牛追いが終了したことを知らせます。
最近、といってもこの数十年、「ディビノ」と呼ばれる人たちがこの牛追いの走りで注意を引いています。 この人達は、サン・フェルミンの牛追いが行われている間、牛追いのみに参加、良い状態で走れることにのみ集中、準備しています。 牛追いの始まる30分前から準備運動をおこない、前日の日中はお祭り期間中でも自制して騒がず、夜はしっかりと寝て、十分な睡眠をとっています。 この人たち、パンプローナの人たちからは あまり良い評判を取っていません。 というのも、走っている最中に 周囲の人をヒジで突いて牛にぶつけたり、テレビカメラの前で意識して良いポーズを取ろうとしているというウワサが出ているからです。 少し注意を払っておいた方が良いようです。
牛追いで最大の危険といえるのは、あまりに参加者が多く、あまりに多くの人が走っているということです。 危険を避けるためには、牛のすぐ前を50メートル以上は走らないということが必要です。 牛追いが行われる道に沿って、かなりの監視が行われ、医療班も待機していますが、危険なことにかわりはありません。 1900年からの数字を見ても、14人の方が亡くなられ、200人以上の人が牛の角に突かれ重傷を負っています。 お祭りですから、安全に楽しんでもらえればと思います。