|
今回の欧州出張は5月21日(火)ストラスブルグでアルザス開発公社のアッテル副総裁との面談から始まることになっていた。 幸い、20日(月)はフランスもドイツも祝日でお休み。17日(金)に日本を出て、18・19・20日の三日間、ドイツの家族と共に過ごすことにした。
折りしも、北ドイツ・ハンブルグの近くの温泉保養地に妻の親戚が集る事になっていた。一年以上も前から案内状が届いている催しであった。
三年前にも同じ場所で親戚が集まったことがある。妻の母親の兄弟とその子供達・孫達が一同に集いましょうという趣旨の集いである。義母には一人の妹と四人の兄弟がいる。それぞれに配偶者と子供達がいる。子供達、つまり妻の従兄弟達の多くは結婚していて子供達もいる。総勢70名近くに上る。
三年前はそのほとんどが集った。ドイツのみならず、イギリスや、遠くはアメリカからも来た。親戚の中でヨーロッパ人でないのは二人だけ。妻の従妹ザビーネの旦那はアメリカ人だった。そして私が日本人。妻と結婚して20年になる私はその間に多くの叔父叔母、従妹達と会っていたが、それでも、初めて会った義理の従姉妹達や甥っ子や姪っ子が多くいた。
一家族毎に異なるコテージで寝泊りしたが、昼間は皆で一緒に近くの名所旧跡を巡り、朝と晩も皆が一堂に会して食事を共にした。家族の絆とは強いものである。娘達は同年代の又従姉妹達とすぐに打ち解けて遊びまわった。私も不自由なドイツ語を駆使?しながら、家族の輪に加わった。妻がアンクル・ゲオルグと呼んでいた義母の長兄、ザビーネの父親が胃がんの手術の直後であった為、衰弱していたが、義母を含め他の叔父や叔母達は皆元気だった。
あれから、三年。アンクル・ゲオルグは他界した。第二次大戦終戦直後の混乱期に子供時代を過ごし、共に苦労して生き抜いた義母の兄弟6人は殊更に仲が良かった。この度5人が集まっているとそこには亡き長兄のゲオルグも一緒に居る様に思えた。この三年間にゲオルグの娘のザビーネは二人の子宝に恵まれた。他にも、親戚の中には生まれたばかりの赤ん坊が何人かいた。世代が移ろい流れ行く様を目の前に見るかのようだった。
誰が用意したのか、今年もまた三年前のように大きな立看板のようなファミリーツリーが用意され食事会場の壁に立てかけられていた。太い幹の上部に妻の祖父母の写真がありその横に名前が書かれている。出生地と生年月日、死没地、没年月日、結婚した日まで、ご丁寧に記入されている。その祖父母から上に6本の線が6人の子供達の写真に延びている。その一人ずつの横に配偶者の写真が貼られ、夫々の出生地、生年月日、結婚月日が記されている。妻の両親の写真もある。義父は、私達が日本からスペインに移ってくるのを待っていたかのように、96年の春マドリードに遊びに来た。そして、私達の家で他界した。その6組の夫婦から夫々の子供達へ線が延びている。私の妻にも義母から線が延び、妻の横には私の写真が貼られ、私達夫婦から更に二人の娘達の写真に線が延びている。娘達の生年月日も出生地も、USA、カリフォルニア州のロングビーチとオレンジとまで正確に記載されている。
妻の祖父母の写真に目をやると、線が逆に下に伸び、その両親、そのまた両親と、どんどん線が降りている。すべての夫婦に、名前と生年月日と出生地、死没月日、死没地が記されている。幹の一番下にあるご先祖様夫妻の生きた時代は1600年代前半であった。
続く血の流れ。そこに私が加わり、二人の娘が生まれた。二人の娘からも何本かの線が引かれ更に伸びて更に広がって行くことであろう。やがて大きな枝が茂り、妻と私は幹の根元の方に沈んでいく・・・・
家族と共に過ごしながら、過去と未来と現在を同じ地平線上に見つめながら時間の流れの中に生きている自分を改めて実感した週末であった。
|